他の3人のメンバー――ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスンのようには自作曲を書けず、リード・ヴォーカル曲も少なく、ドラム以外の楽器もそれほど手にせず、ビートルズ以外のセッションへの参加やプロデュースもほとんど未経験だったリンゴ。
 69年9月、ジョンがメンバーにビートルズ脱退を告げ、ビートルズ解散が時間の問題になったこの時期、リンゴは“これから1人で70年代以降をどう切り開いていくか”かなり悩んだのではないか。そんな中、リンゴがたどりついたのは、自身のルーツに立ち戻ること――いわばリンゴ自身の“ゲット・バック”だった。それは幼少年時代に聴き親しんだスタンダード・ナンバーとカントリー・ミュージックのアルバムとして結実した。

 70年3月に完成・発売された自身初のソロ・アルバム『センチメンタル・ジャーニー』は、母や親戚の意見を聞いて選曲されたジャズ・スタンダード作品で、自分の資質を理解し、もっとも安心できる人物としてジョージ・マーティンにプロデュースを託したアルバムだった。アルバム・ジャケットの建物は、実父との離婚後に母がリンゴとともに移り住み、幼少年時代を過ごしたアドミラル・グローブの自宅のすぐ近くにあるエンプレス・パブで、ここに当時勤めていた母の姿も収められている。
 続いて発表された『カントリー・アルバム』(原題は『ボークー・オブ・ブルース』)は、ビートルズの解散直後に参加したジョージのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』のレコーディング・セッションで知り合ったカントリー界の大御所でスティール・ギターの名手でもあるピート・ドレイクの勧めでカントリーの本場ナッシュヴィルでレコーディングされた。ピート・ドレイクのプロデュースのもと、70年6月末日からの2日間で制作され、100曲近い書き下ろし曲の中から厳選された曲が収録されたという。
 ジョンとジョージがまだ解散後にソロ・アルバムを出していないこの時期にリンゴは2枚のソロ・アルバムを立て続けに発表したが、『カントリー・アルバム』の録音が終了したのはリンゴが30歳になる6日前のことだった。リンゴは、物心がついた頃から慣れ親しんできた音楽を、熟練したプロデューサー、アレンジャー、ミュージシャンらに委ねることで、ビートルズ、60年代、そして自身の20代を総括しようとしたのかもしれない。

 71年からの2年間、ジョージの全面的なバックアップを得て制作されたシングル「明日への願い」と「バック・オフ・ブーガルー」がともに大ヒットし、リンゴはソロ活動を軌道に乗せた。と同時に、ビートルズ時代に映画『キャンディ』(68年)と『マジック・クリスチャン』(69年)に出演し、俳優としても新たな一歩を踏み出していたリンゴは、この時期に『200 MOTELS』(71年2月)、『盲目ガンマン』(71年6月~8月)、『ボーン・トゥ・ブギー』(72年3月~4月)、『SON OF DRACULA』(72年8月~10月)、『マイ・ウェイ・マイ・ラヴ』(72年10月~73年1月)の撮影に臨むなど、映画出演にも力を入れ、『ボーン・トゥ・ブギー』では監督、『SON OF DRACULA』ではプロデューサーも務めている。
 さらにその間ジョージの呼びかけに応じて『バングラデシュ・コンサート』(71年8月)への出演も果たし、多くのミュージシャンや俳優との人脈を広げていった。

 そして、73年。『センチメンタル・ジャーニー』のタイトル曲のアレンジを受け持ったリチャード・ペリーと、ニルソンの『サン・オブ・シュミルソン』のレコーディング・セッション(72年)の際に再会したリンゴは、リチャード・ペリーに次作のプロデュースを依頼。こうして生まれたアルバム『リンゴ』は、ビートルズのメンバーの作品が収録曲全10曲中8曲を占め、“元ビートルズ”の3人の参加が大きな話題を呼ぶ。
 ビートルズのアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』(67年)を模したアルバム・ジャケットや、ポールを除く3人が参加したジョン作の「アイム・ザ・グレーテスト」のSEなどを含め、いち早くビートルズ・カラーを打ち出し、“ビートルズ再結成”が音楽業界をにぎわし、『リンゴ』は、リンゴ最大のヒット作となった。
 ザ・バンドやT.レックスのマーク・ボラン、ニルソン、ニッキー・ホプキンスなど、曲ごとにゲスト・ミュージシャンを“適材適所”に配することによって、ギター、ベース、ドラム、キーボードからなる骨太なバンド・サウンドの上に彩りをつけたことがこのアルバムを成功に導いたもうひとつの要因だが、これはリンゴの人脈の広さと人柄がなしえたことでもあった。

 リンゴはその後も『グッドナイト・ウィーン』(74年)ほか4枚のオリジナル・アルバムを発表するなど、70年代後半も順調に音楽活動を続けていく。その間、ポリドールへの移籍第1弾アルバム『リンゴズ・ロートグラビア』のプロモーションとCM撮影を兼ねてビートルズの日本公演以来10年ぶりに来日(76年10月)し、大きな話題を呼んだ。

文:藤本国彦